RCC(腎細胞がん)腎がん闘病記病気を〝知る〟ことで不安から逃れる

腎がん闘病記病気を〝知る〟ことで不安から逃れる

荒屋真二さん(61 歳、元大学教授) あらや しんじ 1949年生まれ。大学卒業後、電気会社の研究所に勤務。その後、大学助教授(現在の准教授)を経て、教授に。2006年、左腎がんが発覚、左の腎臓と副腎を全摘。肺転移の治療のため、サイトカイン療法を行った後、現在は分子標的治療を実施。2011年3月には大学教授を退職し、今後は趣味の写真や絵画などを再開する予定。

あらかじめ病気のことを〝知る〟ことで不安から逃れる

病気の発覚から4 年半。
「死は怖くはないが、終末期が怖い」と話すのは元大学教授の荒屋真二さん。
病気について必死に調べ、今後起こり得ることをあらかじめ〝予習〟することで、
それを安心につなげているという。

死ぬことより手術がイヤだった

体の異常は血尿というショッキングな症状から始まりました。2006年の初夏のことです。お昼ごろ、トイレに入った私は、血液そのもののように真っ赤な尿を見てパニックになりました。

血尿は翌朝まで続き、近くのA泌尿器科専門病院を受診しましたが、CT画像を見た医師は「腎がんですね。手術しましょう」とすぐに告知。左の腎臓に5センチほどのがんができていました。あれほどの血尿にもかかわらず、私自身はがんを露ほども疑わなかったので、再びパニックに襲われましたが、その日はいったん帰宅。日を改め、セカンドオピニオンを受けに、近くのB総合病院に行きました。

B総合病院でも診断は同じでしたが、A病院は開腹手術、B総合病院は開腹せずに腹腔鏡による手術を行うと聞き、B総合病院で手術を受けることにしました。私は病気をしたことがなく、血を見るだけで青くなり、入院なんてとんでもないという人間でしたから、最初は開腹だろうが腹腔鏡だろうが、手術を受けるくらいなら死んだほうがましと思っていました。けれども、妻と3人の息子たちに説得され、仕方なくダメージの少ない腹腔鏡を選んだのです。決心したら、やっと腹が据わりました。

2006年7月、左の腎臓と副腎を全摘出。T1b期(がんが腎臓の被膜内にとどまっていて、5~7センチ)でした。

術後は3カ月に1度くらいのペースで検診を受けていましたが、毎回、「転移していたらどうしよう」とドキドキしました。

しかし、日が経つにつれてそんな怖れも薄らぎ、私は毎回何時間も待つB総合病院に通うのがつらくなりました。そこで、手術から約2年半が過ぎた2009年3月、B総合病院から治療データを出してもらい、A泌尿器科専門病院に戻りました。転移がわかったのは、A病院に戻って第1回目の検診のときでした。

肺転移が見つかりサイトカイン療法開始

「肺に転移しています」

A病院の医師は私と、私に付き添っていた家内に告げました。1センチ大のがんが1つ、5ミリ大のがんが2つ。さらに、小さな砂粒のような結節が両肺にいくつも見えました。血尿もがん告知ももちろんですが、転移が見つかったことはそれ以上にショックでした。ステージ4と、一気に最終段階まで進んでしまったわけです。しかもこのとき、できる治療法は注射によるサイトカイン療法のみでした。最新の分子標的薬は日本でまだ認可されていなかったのです。

A病院で転移がわかったあと、再びB総合病院に行きましたが、ただ1つ希望のもてるサイトカイン療法も奏効率※が20 パーセント程度と聞き、愕然としました。

「そんなに効果の小さい治療法を受けて、大丈夫なのだろうか」

疑問を感じ、インターネットなどで調べたところ、ラジオ波焼灼療法という治療法があることを知りました。がんの病巣部に針を刺し、ラジオ波を流してがんを焼き切る治療です。2つの大学病院の医師に相談すると、どちらも親切に対応してくれましたが、最終的にはB総合病院の主治医の意見に従い、サイトカイン療法を受けることにしました。同年4月のことです。

幸い、私はサイトカイン療法の効く20パーセントに入っていたらしく、がんはかなりの期間、おとなしくしてくれました。

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  • ※奏効率 = がんの大きさに50パーセント以上の縮小が4週間以上にわたってみられた割合

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